翻訳と辞書
Words near each other
・ I-123 3ジメチル-P-ヨードフェニルペンタデカン酸
・ I-123βメチル-p-ヨードフェニルペンタデカン酸
・ I-123ヒト血清アルブミン
・ I-131大凝集アルブミン
・ I-131標識フィブリノーゲン
・ I-15 (航空機)
・ I-153 (航空機)
・ I-16 (航空機)
・ I-17 (航空機)
・ I-180 (航空機)
I-185 (航空機)
・ I-190 (航空機)
・ I-1クラブ
・ I-207 (航空機)
・ I-5 (航空機)
・ I-Space構想
・ I-Space計画
・ I-linkタウンいちかわ
・ I-modeフェリカ
・ I-wish you were here- あなたがここにいてほしい


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

I-185 (航空機) : ミニ英和和英辞書
I-185 (航空機)[あい185]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

航空 : [こうくう]
 【名詞】 1. aviation 2. flying 
航空機 : [こうくうき]
 【名詞】 1. aircraft 
: [そら]
 【名詞】 1. sky 2. the heavens 
: [き, はた]
 (n) loom

I-185 (航空機) : ウィキペディア日本語版
I-185 (航空機)[あい185]

ポリカルポフ I-185ロシア語:、ラテン文字表記の例:Polikarpov I-185)は1941年ソ連で試作された戦闘機である。単座単発の低翼単葉機で、胴体は半モノコック構造合板製、主翼はジュラルミン製だった。エンジンは空冷星型14気筒のシュベツォフ M-82 と空冷星型18気筒のシュベツォフ M-71 の二通りがあり、プロペラは直径3.2mの三翅のものを使用していた。飛行試験では優れた結果を残したが、エンジンの問題や政治的理由などにより量産されることはなかった。
== 開発 ==
1939年、ソビエト空軍は、国外の新型機に対抗可能な近代的な単葉戦闘機を必要としていた。I-15I-16 といった主力戦闘機の設計を手掛け、「戦闘機の王様」と呼ばれたニコライ・ポリカルポフは当時最も有力な設計者だったが、彼を取り巻く環境は決して楽な物ではなかった。彼の設計局は縮小移転され、彼が手を付けた I-200 戦闘機(後のMiG-1)の開発はミコヤン・グレビッチ設計局に移管されてしまった。I-16 戦闘機の改良型として製作された I-180 は多くの問題を抱え、ポリカルポフ自身も、1938年の試験飛行中の墜落事故でテストパイロットとして搭乗していたソ連邦英雄ヴァレリー・チカロフを死亡させたため、当時のソ連の主導者スターリンから信頼されなくなっていた。しかしこのような逆境にあっても、彼は航空機の設計作業を止めることはなかった。
ポリカルポフは1939年にドイツに航空産業の見学に訪れ、フォッケウルフ Fw 190 のような国外の新鋭機に対抗するためには、当時開発中だった大出力の複列星型エンジンを戦闘機に搭載することが必要不可欠だとの確信を得た。彼は1940年のはじめ、I-180 をベースに、1750馬力のトゥマンスキー M-90 エンジンを搭載する I-185 を設計した。最初の原型機は1940年5月25日に完成したが、その時点で入手可能だった唯一の M-90 は飛行試験には使える物ではなかった。そこでより大型で2000馬力を発揮するシュベツォフ M-71 エンジンを搭載するように設計が変更されたが、このエンジンも間に合わず、結局1600馬力のシュベツォフ M-81 を搭載するように再度の改設計が必要になった。ポリカルポフ設計局へ届いた M-81 は欠陥品で開発はさらに遅れ、1941年1月11日に、ようやく試作機 I-185 (M-81) が初飛行に漕ぎ着けた。ところが飛行試験でエンジンの異常振動が発生し、I-185 (M-81) の開発は早々に放棄されることになった。試作機はエンジンを M-71 に戻して I-185 (M-71) に作り変えられ、1941年5月29日に再飛行した。別に作られたもう1機の試作機は4月8日に飛行した。1941年夏には1700馬力のシュベツォフ M-82 エンジン(後にASh-82と改名)を搭載し、20mm機関砲3門を装備する I-185 (M-82) が2機製造された。
1941年10月、ドイツ軍の侵攻から逃れるため、I-185 はポリカルポフの第51工場からノボシビルスクに疎開した。1942年3月の政府によるトライアルでは、I-185 は極めて優れた結果を示した。I-185 (M-71) の最高速度は630km/h、I-185 (M-82A) の最高速度は615km/hに達し、操縦も容易であった。結論は、I-185 (M-71) は当時の他のあらゆるソ連の戦闘機より優れており、I-185 (M-82A) も (M-71) 程でないにしても、それに次ぐ性能を持っているというものだった。1942年6月には実際の量産を想定して組み立てられた5号機(M-71搭載)が完成したが、これは最高速度が667km/hに達した。
1942年、I-185 の試作機を戦場でテストすることが決定され、I-185 (M-71) と I-185 (M-82) 2機ずつが、1942年12月9日から1943年1月13日の間カリーニン戦線に展開する第3航空軍の第728親衛戦闘機連隊で運用された。試作機を失わないよう空戦行動や敵占領地区上空の飛行は禁じられた。パイロットは I-185 を絶賛した。特にその速度性能(Yak-7BLa-5 よりも早く、当時のソ連の戦闘機の中では最高だった)や、大出力のエンジンが生み出す垂直方向の機動性、強力な武装、操縦の容易さは際立っていた。I-185 の飛行特性は I-16 のそれに似通っており、機種転換が簡単という点も重要だった。実地テストの結果、I-185 に小改良を加えて量産するよう勧告された。
時を同じくして、政府によるさらなる試験が進められていた。I-185 (M-71) の最高速度は、一部の試験飛行では、700km/h を超えることもあったと報告されている。結果は非常に満足のいくもので、テストパイロットがスターリンに対して I-185 の優秀さを説明し、可能な限り早い段階での量産開始を求める手紙を書くほどであった。1943年2月にはモスクワの第81工場で I-185 の大量生産の準備が始まった。しかし同年4月5日、I-185 (M-71) の試作機がエンジントラブルのために墜落事故を起こし、同じ月に生産準備作業は一転して中止された。公式な理由は、新型機を導入することで一時的に戦闘機全体の生産性が低下する恐れがあるというもので、M-82 エンジンは既に La-5 戦闘機に使用されており、M-71 エンジンは、一応使用可能なレベルではあるが、まだ故障がちという問題もあった。しかし、他の設計局からの圧力や、スターリンがヤコブレフやラボーチキンを好んだことなど、政治的理由も多分に影響したものと思われている。
ポリカルポフはこれにもめげず、I-185 を改良する作業に取り掛かった。I-187 は 出力が2200hpに向上した M-71F エンジンを搭載し、後方視界に優れる水滴型風防を採用していた。武装は20mm機関砲4門に強化され、最高速度は710km/hを見込んでいた。他には2080馬力の改良型ツマンスキー M-90 エンジンを搭載する I-188 や、最高速度591km/hの I-195 複葉戦闘機、複座練習機型の DIT-185 が提案されていた。しかし、1944年7月30日、ポリカルポフは食道癌のため52歳でこの世を去り、I-185 の開発は終わりを告げた。ポリカルポフ設計局直属の第51工場は、スホーイ設計局の拠点となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「I-185 (航空機)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.